リスクアセスメントの基礎
まず、化学物質管理において非常に重要なリスクアセスメント(Risk Assessment: RA)の基礎について説明します。
リスクアセスメントは、職場で労働者が負傷したり、病気になったりする危険性や有害性を事前に特定し、そのリスク(危険度)を見積もり、取り除くか低減するための対策を計画・実行する一連の手続きです。
リスクアセスメントの目的
リスクアセスメントの最大の目的は、労働災害の未然防止です。
作業を開始する前に潜在的な危険を洗い出し、その危険度を客観的に評価することで、「勘」や「経験」に頼るのではなく、科学的かつ計画的に安全対策を講じられるようにします。
法的背景
労働安全衛生法は、化学物質を取り扱うすべての事業者に対し、以下の実施を義務付けています(法第57条の3)。
- 化学物質の持つ危険性・有害性を特定すること。
- 特定された危険性・有害性により生じるおそれのある労働者の危険又は健康障害のリスクを評価すること。
- リスクを低減するための措置を講じること。
リスクアセスメントの基本的な手順
ステップ 1: 危険性・有害性の特定(ハザード特定)
まず、作業場にある化学物質や作業環境の中に、どのようなハザード(Hazard:危険源・有害源)があるかを洗い出します。
- 化学物質のリスク: SDS(安全データシート)の情報に基づき、引火性、爆発性、毒性、腐食性など、その物質が持つ固有の危険性・有害性を特定します。
- 作業環境・作業手順のリスク: 物質が漏洩する可能性、熱くなる機器との接触、転倒・落下のリスク、作業者へのばく露の程度などを特定します。
ステップ 2: リスクの見積もり(リスク評価)
特定された危険性・有害性が、実際にどの程度の「リスク」になるかを評価します。リスクは、以下の2つの要素から見積もられます。
リスク =発生する可能性(頻度)× 災害の重篤度(重大さ)
- 発生の可能性(頻度): その危険な事象が、どの程度の頻度で発生しそうか(例:頻繁に起こる、めったに起こらない)。
- 重篤度(重大さ): 事故や健康被害が発生した場合、その被害の程度はどのくらいか(例:軽傷、入院、死亡)。
これらの頻度と重篤度を点数化し、掛け合わせることでリスクの大きさを算出し、優先順位をつけます。リスクが高いものから対策を講じます。
ステップ 3: リスク低減措置の決定と実施
見積もられたリスクが許容できるレベルを超える場合、そのリスクを下げるための対策を計画し、実施します。対策は、効果の高いものから順に検討されます。
- 除去・代替(最も効果大): 有害性の低い物質に代替する、危険な作業を廃止する。
- 工学的対策: 密閉化、局所排気装置の設置、換気システムの導入など、設備で危険源を隔離する。
- 管理的対策: 作業手順書の作成、立ち入り禁止区域の設定、警告表示、労働衛生教育の実施など、運用でリスクを管理する。
- 個人用保護具(最も効果小): 保護メガネ、防毒マスク、保護手袋などの個人用保護具(PPE)を作業者に着用させる。
化学物質販売業者のリスクアセスメントの例
次に、化学物質の販売業者を例に、倉庫保管と運送におけるリスクアセスメント(危険性・有害性の調査と評価)を行うためのポイントをご説明します。
労働安全衛生法に基づくリスクアセスメントの義務は、化学物質を取り扱う全ての作業に適用されます。販売業者にとって、特に「保管」と「運送」の段階では、取り扱い時のばく露リスクに加え、災害発生リスク(火災、爆発、漏洩など)に焦点を当てて評価することが重要です。
リスクアセスメントの基本手順
リスクアセスメントは、以下のステップで進めることが基本です。
- 危険性・有害性の特定(SDSに基づく)
- リスクの見積もり(発生頻度と重篤度の評価)
- リスク低減措置の決定と実行
倉庫保管作業のリスクアセスメント
倉庫でのリスクアセスメントは、主に保管中の災害リスクと入出庫時のばく露リスクに焦点を当てます。
(1) 危険性・有害性の特定(倉庫)
SDSの以下の情報を活用し、倉庫内でどのような危険があるかを特定します。
- 引火性、発火性、爆発性: 火災・爆発の可能性。
- 反応性: 水、空気、または他の物質と接触して危険な反応を起こす可能性。
- 毒性、腐食性: 漏洩した場合の作業者への健康被害や、建材・機器への損傷。
- 保管上の注意: 混載禁止物質、温度、湿度管理の要件。
(2) リスクの見積もりと低減措置の例(倉庫)
| リスク要因 | 具体的なリスク(重篤度) | 低減措置の例 |
| 混載・誤保管 | 混載禁止物質が接触し、火災・爆発 (極めて重篤) | SDSに基づく保管区分(隔離、遮光、温度管理)を明確にし、表示を徹底する。 |
| 容器の損傷 | フォークリフト作業等による容器の破損、漏洩・飛散 (重篤) | 衝撃を受けにくい低い位置に保管する。フォークリフト運転者に安全な作業手順を周知する。 |
| 換気不足 | 揮発性物質の滞留による中毒・爆発 (重篤) | 法令(有機則、特化則など)に基づく局所排気装置または全体換気装置の設置・稼働。 |
| 緊急時の対応 | 火災、大量漏洩時の初動遅れ (極めて重篤) | SDSの備え付け場所を明確にする。消火器、吸着剤、保護具をアクセスしやすい場所に配置する。 |
運送作業のリスクアセスメント
運送(積み込み、運搬、積み下ろし)作業におけるリスクアセスメントは、運送中の事故リスクと取り扱い時のばく露リスクに焦点を当てます。
(1) 危険性・有害性の特定(運送)
運送の特性上、振動、温度変化、衝撃によるリスクが増加します。
- 容器の強度: 運送に耐えられる容器であるか。
- 国連分類(UN番号): 危険物として運送に関する法令(消防法、高圧ガス保安法、毒劇法など)に該当するかを確認。
- 積み付け: 混載制限、転倒・落下防止策。
(2) リスクの見積もりと低減措置の例(運送)
| リスク要因 | 具体的なリスク(重篤度) | 低減措置の例 |
| 積み付け不良 | 運搬中の荷崩れ、落下、容器破損 (重篤) | 固縛(ロープやベルトでの固定)を徹底。容器を平積みし、振動を吸収する資材を使用する。 |
| 積み込み/積み下ろし | 容器の落下、破裂による作業者のばく露 (重篤) | 二人がかりでの持ち運び、または適切な昇降機の使用。作業者への適切な保護具(手袋、ゴーグル)の着用指示。 |
| 運送中の事故 | 衝突等による化学物質の大量流出 (極めて重篤) | 運送業者との間でSDS、緊急連絡先、緊急時対応手順を共有する。運送車両にイエローカード(緊急時対応カード)を備え付ける(主に高圧ガス・毒劇物)。 |
| ドライバーの教育 | SDS内容の無理解による事故対応の失敗 (重篤) | SDSに基づく危険性、運送上の注意事項、緊急時の連絡手順の教育を義務付ける。 |
容器破損を想定したリスクアセスメントの例
販売業者にとって、普段は密閉された容器で取り扱っている化学物質について、「事故時の漏洩・ばく露」に焦点を当てたリスクアセスメント(RA)の進め方は非常に重要です。
通常作業時のばく露(例:希釈・計量時)とは異なり、「容器の破損」という非定常作業や事故を想定したRAは、特に重篤度が高いリスクとして評価されます。
ステップ 1: 危険性・有害性の特定とシナリオ設定
まず、事故が発生した際の「危険源(ハザード)」と、それによって起こりうる「最悪のシナリオ」を特定します。
1. 危険性・有害性の特定(SDSに基づく)
SDSから、漏洩時に特に重大な影響を及ぼす情報を確認します。
- 健康被害の重篤度: 皮膚腐食性、急性毒性、発がん性などの健康被害の深刻さ。
- 物理的危険性: 引火点、爆発限界、反応性など、火災や爆発につながる危険性。
- 揮発性: 漏洩した際に、どれだけ速く、広範囲に蒸気が拡散し、ばく露や引火を引き起こすか。
2. 事故シナリオの設定
容器破損の具体的なシナリオを想定します。
- シナリオ例: 「作業員が運搬中に瓶を落とし、全量が床に漏洩した」
- 影響の範囲: 漏洩量、物質の揮発性、作業場の換気状況から、作業員が吸入または皮膚に接触するばく露の範囲と程度を想定します。
ステップ 2: リスクの見積もり(頻度と重篤度の評価)
1. 発生頻度(可能性)の評価
「容器を落とす」という事故がどの程度起こりうるかを評価します。これは作業環境と管理状況に依存します。
| 評価の観点 | 可能性を高める要因(頻度 ↑) | 可能性を低くする要因(頻度 ↓) |
| 作業方法 | 無理な姿勢での運搬、不慣れな作業員 | 2人作業、専用台車・運搬器具の使用 |
| 環境 | 床に段差がある、照明が暗い、滑りやすい | 床の整備、十分な照度、整理整頓 |
| 容器 | 持ちにくい形状、劣化している | 破損しにくい容器への変更、定期的な点検 |
2. 重篤度(重大さ)の評価
事故が発生した場合の最悪の結果を評価します。
- 健康被害: 救急搬送、重度の後遺症、死亡に至る可能性。
- 物的被害: 大規模火災、爆発、建物の損傷。
- 事業への影響: 長期間の操業停止、環境汚染による罰則。
通常、危険性の高い物質の全量漏洩事故は、「重篤度:極めて重大」と評価されるべきです。
リスクの見積もり=(評価した頻度)×(評価した重篤度)
ステップ 3: リスク低減措置の決定と実行
このリスク評価に基づき、頻度を下げる対策と重篤度を下げる対策を検討します。
(1) 頻度を低減する措置(事故の予防策)
主に作業管理と工学的対策で対応します。
- 運搬・保管方法の改善(工学的・管理的):
- 運搬には転倒防止措置を施した専用のキャリーカートや台車を必ず使用する。
- 保管棚には落下防止用のフチを設ける。
- 容器を運搬するルートを定め、障害物を排除する。
- 作業教育(管理的):
- 容器の持ち方、積み下ろし手順をマニュアル化し、定期的に教育する。
(2) 重篤度を低減する措置(被害拡大防止策)
主に緊急時対応と工学的対策で対応します。
- 漏洩防止(工学的):
- 保管場所や作業場所の床に「堰(せき)」を設け、漏洩時に物質が拡散するのを防ぐ(二次被害防止)。
- 漏洩時に物質を溜めるための「受皿(ドリップパン)」の上で取り扱い、保管する。
- 緊急時の対応手順(管理的):
- 漏洩時の初動対応マニュアルを策定し、作業場に掲示する。
- SDSに記載された応急措置、消火方法を訓練する。
- 防護・処理用品の整備(管理的):
- 漏洩処理用の吸着材、中和剤、および緊急時用の高性能な呼吸用保護具や耐透過性保護手袋を、漏洩現場の近くに常備する。
「容器の破損による漏洩」は頻度は低くても重篤度が高いため、二重の対策(頻度低減と重篤度低減)を講じることが不可欠です。
リスクアセスメントは一度行えば終わりではなく、作業方法が変わったとき、設備を導入したとき、またはSDSが改訂されたときなど、定期的に見直す必要があります。


